久留里 正源寺
 地獄巡り仮想旅行


 仏教で言う「地獄」の思想は、決して人の心を脅かして宗教に引き込もうという浅はかな考えから起こったものではありません。
 深く自分自身の生き方を見つめなおしていただくことが目的なのです。
 人は誰でも「悪いことをしないで、善いことをする」ということは判っています。
 でも、何が悪で、何が善なのか、よく理解できていないのが私達ではないでしょうか。
 せっかくこの世に人として生まれさせていただいた、二度とない人生ならば、出来れば過ちを起こさず、明るく正しく仲良く暮らしたいと思っていても、あれもほしい、これもほしいという「欲張り」の心から、自分自身の考えと異なることから起こる「怒り」の心から、そして自分の命がいかにたくさんの目に見えないおかげによって生かされている大事な命だということがわからない「愚か」な心から、多くの過ちを犯してしまいます。
 この地獄の思想は、深く自分自身を見つめなおしていただき、いかに自分という人間が、愚かで至らない、罪深い欠点だらけであることを深く自覚し、より良い人となって、豊かな人生を歩んでいただくために考えられたものです。
 皆様も、この地獄巡りの中に自分自身の姿を見つけ出して下さい。
 きっとどこかの地獄に落ちて、苦しんでいる自分を見つけ出せるはずですから。


     
       


 皆様ようこそ「地獄めぐりツアー」にご参加いただきまして、有り難うございます。
 出発までのしばらくの間、地獄についてのご説明をさせていただきます。
 これから皆さんには、八つの代表的地獄をご体験いただきます。
 その名称を順にご紹介いたしますと、
1、等活地獄(とうかつじごく)
2、黒縄地獄(こくじょうじごく)
3、衆合地獄(しゅうごうじごく)
4、叫喚地獄(きょうかんじごく)
5、大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)
6、焦熱地獄(しょうねつじごく)
7、大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)
8、阿鼻地獄(あびじごく)又の名を無間地獄(むけんじごく)

と申します。
 地獄にはこの他に、128ヶ所の副地獄というものがありますが、今回はこの八か所の地獄のみを巡ってまいります。
 なぜこのように地獄の数が多いのかと申しますと、人の作る罪は実に千差万別、多種多様の罪があり、その個別の罪状ごとに一つの施設に罪人を収監しなければいけないからなのです。
 最近では、人の作る罪の種類も想定外に増えて来ておりますため、今地獄では新しい施設の建設ラッシュが続いておりますが、なかなか追いつかないのが現状のようでございます。
 そして、このどちらの地獄に罪人が収監されるかは、前に「死出の旅路ツアー」で行かれた四十九日間の7回の裁判で決められます。
 皆様がお住まいになっている、この地球上のどこの国であっても、法律や決まりというものがあって、その法律や決まりに違反すると罰せられますね。
 その違反の度合いによって、罰金や労働を課せられたり刑務所に拘禁されたりして、その罪を償うことになります。
 「それでいいじゃないか。死んでからもう一度済んでしまったことを穿り返して、また罰せられるなんて罪の償いの二重取りでずるい。」
 なんてお考えの方もいらっしゃいますが、人の世で人が人を裁くなんてことはどだい無理な話なんです。
 もちろん、間違いだってあるし、理不尽なことだって不公平なことだってあるんです。
 四十九日の間にお出ましになる7人の裁判官にとって、人間同士の営みによって起こる出来事など関係ないんです。ただ人が人として正しく生きてきたか生きてこなかったかを裁くだけなんです。
 巷の噂に「地獄の沙汰も金次第」なんていう言葉がありますが、これはまったくのウソです。
 お金などいくら積んでみても、全く通用いたしません。もちろん保釈金なんていうのもありません。
 地位も名誉も肩書も、ましてや賄賂もまったく通用いたしません。
 ただ人がどう生きてきたかを判断するだけなんです。
 はっきりと言いますが、仏様は情け容赦ないんですから。いい意味でね。

 人が人として行う、正しくない行いは実に多種多様です。
 そのため、八つの代表的地獄の他に128もの副地獄を作り、一人一人に最も適した罪を償い反省悔悟する場所を設けたわけです。

 そうなんです。この地獄というところはただ単に人が人として犯してきた罪を懲らしめるためだけの場所ではなく、あくまでも人が人として犯してきた罪の重さを、体で心で感じさせ、その罪を償い反省悔悟させるところなのです。
 仏様の大慈悲の究極の場所なんです。人が本来の人となってもらうための場所なのです。だから情け容赦しないんです。それがすべての人がほんとうに幸せに生きていってほしいという仏様のやさしい心なんです。

 その罪を償う期間は、その罪状により数百年から数万年にも及びます。しかし、刑期の途中であっても、罪人が心の底から自らの罪を悔い改めて、二度と人として間違った行いをしないと認められたとき、仮釈放が許され、極楽浄土に行くことが出来るかもしれません。
 でも間違えないで下さい。人として二度と間違った行いをしないと、仏様から認められた時にですよ。
 芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」っていう小説ご存じですよね。
 主人公の泥棒カンダタが、せっかく仮釈放されそうになったのに、「他人はどうでも、自分だけが救われれば」という心が出て、仮釈放を破棄されたことがありましたですよね。
 うわべだけの言葉や態度だけでは、仏様をだますことは出来ませんので、ご注意を。

 実際、皆様方が住んでいるこの地球上では、何が悪で何が善なのか判断できないことが多すぎませんか。
 例えば、もっとも悪だといわれている戦争にしたって「勝てば官軍、負ければ賊よ」なんていわれているように、物や大地を破壊し、人を大量に殺したところで、平和のためにはしかたがなかったのだということで、勝者は褒め称えられます。
 どんな理由があろうとも、敗者には殺戮者といわれて罪に問われます。
 人が人を正しく公平に裁くことが出来たでしょうか。出来はしなかったですね。
 どんなに綺麗ごとをいったところで、人が人を正しく裁くことなど出来ないのです。
 人は、自分自身のことですら、その人生を振り返って見て、自分が人として正しく生きて来たかなんて、判断することすら出来ないんですから。
 えっ。あなたは、自分は人として正しく生きて来たつもりですって。
 あなたはもうそこで、少なくとも二つの罪を作っているのです。
 それは「うそつき」と「自分を正しく見られない」という罪なのです。

 出発までのしばらくの間、瞑想の時間を設けてあります。
 このしばらくの時間、自分自身の今までの生きてきた道を振り返って見てください。
 きっとたくさんの、数えきれないほどの罪を犯してきたことに気がつくかもしれませんよ。

 それでは車内の明りを消さしていただきます。しばらくの間の瞑想お願いいたします。
 そこのおじさん!
 だめですよ。暗くなったからといって、隣の女性の膝に手を伸ばしちゃ。
 ほんとに人間てだめですね。何を言っても。
 まるで床に塵や埃が知らないうちに溜まり続けるように、罪を作り続けるんですから。
 まあ、それも今のうちです。地獄巡りを終えたら、二度とやりたくなくなると思いますよ。
  
 それでは、しばらくの間、瞑想を。

 ここは地獄の第一番目、最も罪の軽いものが落ちるといわれております等活地獄です。
 どうぞ窓の外をご覧くださいませ。とてもまともには見ることのできないほどの、人が人と骨になるまで殺しあう凄惨な様子がおわかりになると思います。
 この完全密閉されたツアーバスの車内ではわかりませんが、外は猛烈に熱く、そして猛烈な悪臭に満ちております。
 この熱と臭いを一つまみでも地表に出せば、地球上すべてが猛烈な熱と悪臭に満ちてしまうといわれております。
 しかし、ここは地獄のほんの入り口です。順を追うごとにこの熱さと悪臭は数十倍数百倍と強まってまいります。
 
 右前方に、大きなトゲの付いた金棒を持っている鬼のような方々がいるのがおわかりになると思います。
 あの方々は、ここ地獄の獄卒で、罪人の管理と更生の手助けをする方々です。
 頭が牛のような方を牛頭(ごず)様といい、あたまが馬のような方を馬頭(めず)様とおっしゃいます。
 なにもあんなに怖い姿をしなくともよろしいのですが、やはり罪人を叱り責めるためには、迫力というものが必要ですからね。
 しかし、あの方々は本当はとてもお優しい方々なのです。なにしろ仏様のお使いの方々ですから。
 心で泣き、心でいつくしみながら、少しでも早く罪人をまともな人にさせようと、情け容赦なく、四六時中休みなく罪人を責め立てているのです。
 つらいお仕事だと思いますよ。頭が下がります。

 この等活地獄は、命を大切にしなかった人。つまり、殺生の罪を犯した人が落とされる地獄です。

 殺生といえば、人が人を殺した、という罪が思い浮かびますが、私たちはそのような大罪の他には、殺生の罪を犯してきたことになかなか気が付かないものです。
 人は、自分の命を保つためには食物というものを摂らなければなりません。
 ご飯、パン、野菜、肉、魚などを。
 私たちが口にするすべてのものはみな命のあったものです。
 ご飯の元となるお米は、畑に蒔けば稲穂となる命です。
 一見して命であったことがわかる魚や肉と同じように、ご飯もパンも味噌汁も、もとはみんな命があったものなのです。
 人は他の命をいただいて生きていける、いや、生かさせていただいている命であるのに「いただきます」「ごちそうさま」の感謝の言葉さえ忘れてしまうことがあるのが私たち人間なのです。
 私たちの快適で文化的豊かさの生活の陰で、どれほどの命が無駄に奪われ、涙を流してきたのでしょうか。
 その私たちが犯した殺生の罪に気が付かさせることが、この等活地獄の役目なのです。

 さ見てごらんなさい。人が人と殺しあうこのおぞましい姿を。
 罪人たちの爪は、鉄のように硬くするどく尖っています。その爪で、絶叫しながら互いにつかみ合い、相手を切り裂き合い、血だるまになりながら骨となるまで殺し合いを続けているのです。
 彼らは、相手が憎くて殺し合っているわけではありません。ほんとうは殺し合いなどしたくはないのです。でも、相手を殺さなければ自分が殺されるという恐怖から殺し合いをしているのです。
 もし途中で殺し合いを止めようとすれば、あの牛頭様馬頭様に、金棒で殴りつけられ、殺し合いをするよりももっと強い恐怖を与えられるのです。だから、殺し合いをするよりしかたがないのです。
 すべての罪人が骨だけとなり、地に倒れ伏すと、牛頭様馬頭様が「活きよ活きよ」と大音声で怒鳴りつけます。
 そうすると、罪人すべてが活きかえり、また殺し合いをしなくてはならないのです。
 こんな時間が延々ととどまることなく続くのです。
 休むことのない殺し合いの世界、これが「等活地獄」です。

 皆さん、少しはお気が付きになられたでしょうか?

 私たちがグルメだ美食だと豊かさを享受している裏で、どれほどの命が無駄に奪われ、どれほどの人たちが飢えて命をなくしているのでしょうか。
 私たちが快適で豊かで文化的な生活を営む裏で、どれほどの自然環境を破壊し、どれほどの命が奪われたのでしょうか。
 ペットブームの裏で、どれほどの命が涙を流しうばわれていったのでしょうか。
 私たち一人一人が、殺生という大罪を、どれほど犯してきたのでしょうか。

 この等活地獄に落ちた人々が、命の大切さ、命の大事さ、命の重さ、そして自分自身の犯してきた罪の重さに早く気が付き、まともな人間として極楽浄土に行ける日が一日でも早く来ることを願い、等活地獄を後にして次の地獄に参りましょう。
 最後に、等活地獄に落ちた罪人のために、自分自身の罪の重さのために、十遍のお念仏をお称えしましょう。
 ナムアミダブ、ナムアミダブ・・・・・・・・・・・・・・・・ナムアミダブツ

 この黒縄地獄は、盗みを働いたものが落とされる地獄です。
 一言に「盗み」といっても、実に多種多様の盗みがあります。
 道に落ちていた一円玉を拾って自分のものにしてしまった、などという些細な盗みから、銀行の金庫を破って大金を取るなどという大きな盗みまで。
 地境を少しはみ出して他人の土地をだまって利用してしまうことから、一国を強奪することまで。
 盗みを働くのは体だけではありません。
 目で鼻で口で頭で、盗みを働くこともあります。
 他人の話を立ち聞きしたり、他人の文章を横目で見たりと、私たちは体と心でどの位の盗みを働いて来たかを知るべきなのです。
 私たちの住む地表では、他人にそそのかされたとか、社会が環境がそうさせたなどと、その盗みの罪の軽減を哀願して情状酌量されることもあります。
 また、これ位の盗みは許されるだろうとか、他人が見ていないからいいだろうなんて、自分自身に言い聞かせる盗みもあります。
 人間が見た目で軽い罪であっても、仏様の目から見れば罪の重さは変わることはないのです。
 あくまでも盗みの罪は自分自身の罪なのです。
 その罪の重さを認識させ、自責の念を起こさせ、正しい人になるよう導くのがこの黒縄地獄の役割なのです。

 ほら見てごらんなさい。この地獄には牛頭様、馬頭様の他にたくさんの鬼達がいるのがわかるでしょ。
 あの鬼達は、自分自身の心から出た鬼なのです。
 つまり自分自身が自分自身を責め立てているのです。
 どんなささいな盗みのであっても、他人が見ていなくとも、自分自身はその罪の重さを知っているのです。
 地表で生きているときの私たちは、心の中に巣くうこの鬼を、ただじっと心の中にしまい続けているだけなのですから。
 皆さんもたまには自責の念にかられて、少しは苦しんだことがあるでしょ。
 ここでは、その数十倍数百倍の自責の念にかられるんです。

 自分自身の心から出た鬼は、自分自身の体を大きなクギで地面に貼り付け、自分自身が犯した盗みの罪の部分に黒い墨縄で線を引いているのです。
 その墨縄の線に沿って、鬼は大きな錆びた切れ味の鈍い鋸でゆっくりと切っていきます。
 罪人は、とてつもない恐怖と苦しみで、聞くに堪えない悲鳴を上げながら切断されていくのです。
 絶命した罪人に、牛頭様馬頭様が涼しい風を吹き込むと、切断された体はまた再び元に戻り、前と同じ恐怖と苦しみを延々と受け続けるのです。
 盗みの罪を悔い改め、心の底からまともな人となるまで。

 盗みの罪は、どんな些細な盗みから大泥棒まで、罪の深さ重さに変わることはありません。
 また、知らず知らずの盗みを重ねてしまうことさえあります。
 今自分の行おうとしている行為が、盗みという罪になるのかどうか、一瞬立ち止まって考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 自分の行った盗みの行為は、他人にはわからなくとも、自分自身だけは知っているはずですから。

 私たちは目に見えないものも盗み取っていることを知るべきです。
 その中でもっとも大きな罪は、時間を盗み取るということです。
 人は、わずか百年足らずの人生の中で、どの位時間を盗み取ってきたことでしょうか。
 時を無駄に浪費すること。これも大きな盗みなのです。
 人として生かされてきて、自分に与えられた大切な時間だというのに、その時間を自分で盗んでしまう。まさに大罪ですよね。
 しかも、他の命が持っている時間さえ、平気で盗み去ってしまうこともあるのです。

 人はやはり、黒縄地獄に一度は落ちて、自分自身の心に巣くう鬼に責め立てられなければ、わからないものかも知れませんね。

 だんだん皆さん顔色が悪くなってきましたね。
 さあさあ、元気出して、次の地獄に行きましょう。
 この位でまいっていたんじゃ、先に進めませんよ。先はもっと凄いんですから。
 

 ここは邪淫の罪を犯した者が落ちる地獄です。
 邪淫、つまり淫乱な人間が落ちて、そのみだらな性癖を徹底的に悔い改めさせるための刑場です。
 邪淫と一言に言っても、やはり様々なものがあります。
 特に近頃では、モラルが無くなったというのか、自制心が無くなったというのか、この邪淫の罪の多さは目を覆うばかりでございます。
 売春、買春などをはじめとするセックス産業などとまで言われる産業という名には価しないものから、不倫、強姦、痴漢、覗き、盗撮と、じつに様々です。
 しかも最近では電子機器の発達から、ますます巧妙にして罪を重ねる人間が増えております。
 そのため仏様も非常にお困りになり、この地獄では、それらの罪を一つ一つに分けず、一か所にさまざまな刑場を設け、順不同に罪人を回して罪を償わさせております。
 ですからこの地獄を、いろいろな罪人を合わせているというので「衆合地獄」と申しております。
 
 さあ見てごらんなさい。
 見つからないように逃げ隠れして岩の陰に隠れた罪人を、その岩が動いて押しつぶされていますね。すごい悲鳴でしょ。
 その向こうの高い木には罪人が裸で逆さ吊りにされてますね。それを、鉄の嘴をもった鳥が突っついていますね。苦しそうですね。
 あーあっ、罪人が焼けた鉄串で串刺しにされてますよ。むごたらしいですね。
 火の川に投げ込まれているのもいますね。
 邪淫の罪はどんなに見つからないように隠れったって、ごまかしたって、仏様の目には筒抜けなんです。
 かくし通せるものではないんです。そこのおじさん、わかってますか?
 
 この地獄でもっとも有名なのが、あの左前方に見えます銀色にキラキラ輝いた「刀葉林」という林です。
 あの林にある木の葉の一枚一枚が、鋭利でギザギザなカミソリの刃状になっております。
 しかもその葉が、自動的に上を向いたり下を向いたりするようになっているのです。
 その木の上には、ナイスボディの美女やイケメン男子がいて、媚を含んだ目と体で罪人を木の上に誘うんです。
 根っから淫乱の性質を持った男も女も、それに誘われてその木に裸で登って行くんです。
 そうすると、カミソリ状の葉は下を向きます。
 下を向いたカミソリ状の葉の木を裸で登って行ったらどうなると思いますか。
 体はズタズタに切り裂かれます。肉から骨までも。その痛さと言ったら。
 やめりゃあいいんですけど、やめられないんですね。この淫乱の性癖は。
 血まみれになりながらも、やっとの思いでテッペンまで登りつくと、もう相手はいないんです。しかも、自分も息絶えてしまんです。
 でもやはりここでも、一陣の風が吹くとまた体は元通り。
 こんどは、木の下から美男美女が誘うんです。
 やめりゃいいのに、誘いにのって木を降りていくんですよ。
 もちろんカミソリ状の葉は上を向くんですよ。
 罪人は上へ行ったり下へ行ったり、こんなバカバカしいことを、延々と続けなければならないんです。
 情けないですね、哀れですね、馬鹿ですね。傍から見てればね。
 馬鹿は死ななきゃなおらない。いえ、死んでもなかなかなおらないのが邪淫の罪なんです。

 ああばかばかし、さあそれでは衆合地獄を後にして、次の地獄にまいりましょう。 

 この地獄は、飲酒の罪によって落ちる地獄です。
 ただお酒を飲んだから、だけで罪があるわけではありません。
 つまり、お酒を飲んだことによって、各種の罪を作ってしまった者が落ちる地獄です。
 早い話が、酒におぼれて失敗したやつが落ちる地獄です。
 「酒は百薬の長」とか「酒は人間関係の潤滑油」なんて言って、へんな癖を出さず、相手の事を思いやる位の理性を保っていられる位にお飲みになるならば、これはこれでさほど悪いことではないと思いますが、
1、人、酒を飲む。
2、酒、酒を飲む。
3、酒、人を飲む。
なんて言われるように、1の場面で止めておけばいいのですが、ついつい理性を忘れ、心のブレーキがきかなくなって2、3の場面に進んでしまうのが人間なんです。
 こうなると「酒は命を削るカンナ水」なんていう状態になってしまいます。
 皆さんだって、ずいぶんとお酒で失敗した人を見てきたでしょ。自分自身を含めてね。
 酒によって殺生もします、盗みの罪も犯しますし、邪淫の罪だって犯すんです。

 地表ではささいな失敗なら「酒のせいだから」なんて、笑って許されることもあります。
 重罪を犯しても、刑務所に入ったり、病院に入れられたりして、罪を帳消しにされることだってあります。
 酒の癖が悪くて、誰からも相手にされずに世間から見放されてしまっても、死ねば「あいつも酒癖が悪かったからな」で済んでしまいます。
 でも、ここではそうはいきません。
 飲酒によって起こした罪は、自分自身の弱い心から出たものであって、誰のせいでもない自分自身のせいなのです。
 ですから、この地獄ではその弱い心を強い心に変えるため、徹底的に責め立てます。情け容赦はありません。

 酒のせいによって起こした殺生・盗み・邪淫などの罪を償い、悔い改めさせるために、牛頭様、馬頭様が罪人の口をむりやりスパナ状の道具でこじ開け、そこに酒の香りのする真っ赤に溶けた灼熱の銅汁を流し込むのです。
 見てごらんなさい。体の内部を灼熱の銅汁で焼かれる罪人を。
 のた打ち回りながら「もう飲みません」「助けてください」と絶叫する様と声を。
 おそろしいですね、自業自得です。
 
 灼熱の銅汁が体の内部を焼き尽くして体外に流れ出ると、罪人は息絶えます。
 しかしやはりここでも、一陣の風が吹くと、焼き尽くされた体はまた元通りになります。
 そうすると、罪人はまたあの酒の香りを欲するのです。
 牛頭様、馬頭様は「そんなに酒が飲みたいなら、飲ましてやろう」と言って、またあの灼熱の銅汁を無理やり飲ませるのです。
 こんな時間が延々と続くのです。
 心の底から、酒の誘惑に負けない強い心になるまで、何百年何千年と。

 心の弱さから出たほんの一瞬の間違い。
 そのために、耐えることの出来ない責苦を受けて泣きわめく声がこの地獄には満ち溢れています。だから叫喚地獄と言うのです。
 ほんとに、お酒って美味しいけど恐ろしいものですね。

 あの泣き叫ぶ声が耳に付いちゃったでしょ。
 でも次の地獄はもっとすごい声が満ちているのですよ。
 それでは次の地獄「大叫喚地獄」にまいりましょう。

名前からして「大」が付くんですから、凄そうでしょ。そう、凄いんです。
 ここは嘘をついた者が落ちる地獄です。
 皆さんもきっとご存じのあの有名なフレーズ「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ」の場所がこの大叫喚地獄です。
 だからと言って、閻魔様が直接罪人の舌を抜くわけではありません。お使いの牛頭様、馬頭様が舌を抜くんです。
 なにしろ、この嘘つきの罪人も数が非常に多いもんですから、閻魔様が一人で罪人の舌を抜いていたら、腱鞘炎になりますからね。

 嘘と言いましても、大きく分けて二種類あります。
 相手の身になって、慰めたり励ましたりするウソと、相手を陥れたり自分の損得勘定でつくウソとがあります。
 もちろんこの地獄は、後者の言うなれば「悪い嘘」をついた者が落ちる地獄です。
 良い嘘か悪い嘘かは、他人にはなかなか分かりにくいものです。でも嘘をついた当人と、仏様にははっきりとわかるんです。
 仏様の前で嘘をついたってどうにもならないんです。罪の上塗りだけの結果です。
 「嘘つきは泥棒のはじまり」なんて言うように、平気で嘘をつく人間は、殺生も盗みも邪淫も犯すようになるものなんです。
 しかも嘘は、口からだけ出るものではないんです。目でも鼻でも手でも足でも、体全体で嘘をつくものなんです。
 
 ほら見てごらんなさいよ。あのすさまじい有様を。
 牛頭様馬頭様が罪人を押さえつけて、ペンチで引き抜いたり目玉をくり抜いたりしてるでしょ。
 舌を引き抜かれればすぐに新しい舌が、目をくり抜かれればすぐに新しい目が出てくるんですよね。
 この苦しみ痛みは、今まで見てきた地獄の苦しみを全部合わせたよりも、千倍もの苦しみ痛みがあるそうです。
 舌を抜かれ喉をつぶされて声など出ないはずなのに、あの叫喚の様、わかるでしょ、大叫喚地獄と言われるのが。

 よく見てみると、見知った顔もありますね。
 テレビなんかで見かけた、政治家さんや占い師、坊さんの顔もありますね。
 ここのところ、詐欺師が多く見かけるようになりました。
 オレオレ詐欺、振り込め詐欺、商法詐欺なんていう連中がね。
 人は貧しくてもいいから、明るく正しく仲良く生きなきゃだめなんですよ。
 ほんと、ウソついちゃ駄目ですね。

ここは熱いですよ。
 他の地獄の熱さなど、ここの熱さに比べれば、霜や雪みたいに冷たく感じるそうですから。
 あそこにある池は、まるで溶鉱炉の中のように鉄が真っ赤に溶けてますね。
 「俺は製鉄会社にいたから、溶鉱炉の熱さには慣れている。」ですって。
 バカ言っちゃいけません。
 ここの鉄の溶けている池の大きさは、あなたの勤めている会社の、何千倍も何万倍も大きくて、温度が高いんですよ。
 ほら、見てご覧なさい。ここに堕とされた罪人は、手かせ首かせされて、自分がこの熱鉄の池に落とされる順番を待っているのです。
 しかも、前の人が熱鉄の池に落とされ溶けていく様子を見ていなければならないのです。
 もしも、恐怖や痛々しさに目をそらせば、容赦なく、獄卒の鬼に、真っ赤に燃える熱鉄の槍で刺されるんです。
 
 ここに堕とされる人の罪は、邪見の罪によるものです。
 邪見とは、よこしまな見方と言われますが、善いことをすれば善いことがあり、悪いことをすれば悪いことがある、自分の生命が大事なら他の生命も大事なものだ、というような因果の道理を信じない者が堕とされるんです。
 皆さんは、弱い者をいじめたり、人種や生まれで差別したりしたことはなかったですか。
 自分とは違うからといって、障害者や性的マイノリティーの人達を差別したことはなかったですか。
 いじめられたり、差別されたりした人々の心を、自分自身に重ね合わせて見てみましょう。
 
 だから、この地獄では、同じ罪を犯した者が、どういう責め苦を味わうかを見ていなければならないのです。
 いじめた者はいじめられるんです。
 差別した者は、やはり差別されるんです。
 
 すべての生命は平等で、一つ一つの生命はみんな尊いものだということを、わからせるためにこの地獄はあるのです。

ここは、前の焦熱地獄を何十倍も熱くしたところです。
 すごいですね。ここでは、火山の噴火も、ほんの焚き火程度にしか見えませんね。
 この地獄は、子供を性的対象者にしてもてあそんだり、酒や薬におぼれて、不純な性行為をしたりして殺したものが堕ちるところです。
 まさに、危険な火遊びは、自分自身を焼き尽くすことになるのです。
 しかも、その焼き尽くされかた、とても見ていられませんね。
 さ、早く行きましょう。

 さあ、ここが最後の地獄です。
 ここは、無間地獄(ムケンジゴク)とも呼ばれ、苦しみ痛みが、絶え間なく続くところです。
 前回までの地獄では、一瞬ではありますが、インターバルがあります。
 でもここでは、それがありません。だから無間地獄と呼ばれるのです。
 ここは、五逆罪という罪を犯したものが堕ちる地獄です。
 五逆罪とは、父母や子供を殺したり、罪もない生命を無差別に殺戮したもののことをいいます。
 テロリストなんていう人達も、ここに堕ちてまいります。
 この地獄は、今までの七つの地獄を全部合わせたようなところで、地獄中最大最強の地獄です。
 ここまでくると、とても見ていられませんし、説明も恐くて出来ません。
 早く、退散することとしましょう。

以上、地獄道の代表格、八大地獄を見てまいりましたが、いかがですか、恐ろしかったですか。
 恐ろしいと思っていただくこと、こんな所に来たくないと思っていただくこと。これが今回のツアーの目的なのです。
 こんな恐ろしい所に行くならば、人間としての短い時間に、どうぞ明るく、正しく、仲良く暮らすことを心がけて下さいませ。
 
 長時間にわたり、ツアーご参加まことにお疲れ様でございました。
 本旅行の時に、またお目にかかれるかもしれません。
 どうぞその日まで、お身体お大事にお過ごし下さいませ。
 まことにありがとうございました。