里見義堯公と加勢観世音菩薩について

 


     
 正源寺境内にあるこのお堂には、「加勢観世音菩薩」と呼ばれる観音様がご本尊として安置されたおります。
 当山秘仏とされ、一年に一日だけ8月10日にご開帳されるほかは、厨子の扉を閉め、一般には拝観することは出来ません。
 この観音像は、久留里城を本城として房総半島に勢力を振るった、小説「里見八犬伝」のお話で名高い、戦国大名 里見氏の戦勝祈願佛として、平時は久留里城の奥深くに、戦時は陣中に安置して日夜ご信仰なされていた、身の丈2尺(60cm)ほどの聖観世音菩薩です。  
         
 
里見義堯公木像    加勢観世音菩薩厨子    略縁起書 


 
 「加勢観世音菩薩」の名の由来は、
 戦国大名 房総里見氏の中で最も勢力を振るった、六代里見義尭(さとみよしたか)の時代の天文年間のこと、子息義弘を総大将とした里見主力軍を、南下してきた甲斐武田氏との戦いのため下総の国へ出兵させ、義尭公は久留里城に待機していたある日の夜のこと。義尭公の夢の中に、全身を金色に輝かせた観音様が現れました。
 その観音様は「義尭よ、油断するな。まもなく小田原より大敵が押し寄せる。兵糧の用意および要路を厳重にしろ。心配するな。我も加勢する。」と告げ、仔細にその作戦を指示したのでした。
 果たせるかな、里見主力軍の留守をついた小田原北条軍の大軍が海を渡り上総の国に侵入してきたのです。佐貫・秋元・小糸などの出城を一気に攻め落とし、三万数千騎の軍勢をもって久留里城を包囲したのでした。
 いくら、難攻不落の久留里城とはいえ、その時の軍勢はわずか三千余騎。多勢に無勢、「もはやこれまで!」と、歴戦の勇者、義堯といえども、いつになく弱気になったのも無理のないことでした。
 しかし、勇気を奮い起こし、半信半疑ながら夢で見た観音様のお告げ通りの作戦を取り、観音像を背負って戦を開始したところ、雨あられと降る敵の矢は味方の誰一人として当たらず、逆に数万の北条軍は蜘蛛の子を散らすように敗走していったのです。義堯は夢を見ているような心持で、背負っていた観音像を下ろし手を合わせると、何と観音像の背に二本の矢が刺さっていたのです。「おお、まさにこの観音様が加勢をしてくださったのだ。」それ以来この観音像を「加勢観音」と呼ぶようになりました。
 後、義堯は再三、この観音様の瑞夢を受け、難なく数度の戦いに勝利を得、帰依一層厚くなり、「このような霊験あらたかな観音像を、一人里見家だけが受けるのは仏の心に反する。」と、母君の菩提寺であった正源寺境内外(現在の場所より100メートルほど南)に一堂を建て、すべての人々に自由に参詣出来るように安置されました。