在阿法師について

開山 在阿法師について


 
在阿法師御尊像
決答授手印疑問鈔序
 上総周東に在阿弥陀仏という者あり
 始め念仏授手印に帰し、而して念仏門に入りて後、念仏名義集に依りて往生の意をほぼわきまえて出離の安心にその書を信仰するといえども、しかれども他門の人に遇いて観経疏を聞くに、信と解が相違してその疑なきに非ず(中略)
 然る間去る正月十七日、在阿草庵に来たり、手に授手印の疑問を挙げて口に口伝の決答を請う。
 然阿齢六十にせまり、目闇く手振う。しかりといえども来門の志に感じ利生の多きを思い、余寒の風を凌ぎ頽齢の筆を走らせ、先聞の趣を載せて後輩の疑問を答え畢。(後略)  


 在阿法師は、正しくは「在阿弥陀仏」といい、浄土宗第三祖「記主禅師然阿良忠上人」が浄土宗の奥義重要書物「決答授手印疑問鈔」著述のきっかけとしたことで有名な僧侶です。
 しかしその後、法師の記憶は浄土宗僧侶の間からも薄れて行き、上総の国周東郷市宿村古丹堀付近に草庵を建て、正嘉2年2月24日に入寂し、その墓には小さな塚と一本の松の木が植えられたとの言い伝えだけが残るのみで、その塚のありかを知っていた里人たちも、その塚に眠る在阿という僧侶が、三経寺のかっての住職であるという以外、どんな人であるのかを知らなかったのです。
 法師没後500年を経た享保16年。ときの大本山鎌倉光明寺五十七世住職義譽観徹上人が、「念仏授手印」を講義の際、「浄土宗の後世盛んなるは在阿弥陀仏の力多し」と法師を慕い、艱難辛苦の末、三経寺山中に古丹堀に法師の遺跡をさがしあて、礼拝の後、碑を建立し、法師の遺徳を讃え、附近四十数ヶ村の人々を教化したのでした。
 観徹上人とともに、在阿法師の遺徳顕彰に尽力した運譽隆岩上人は三経寺を再興し、十間四面の壮大な寺院を建立し、僧侶の学問の場としました。
 その建物は、昭和の高度経済成長の時代に、山砂採掘のため、現在はその内陣部分だけを現在の場所に移築し、三経寺本堂として利用しております。

在阿法師については、下記の文書をご覧ください。 
古松墳墓記 義譽観徹上人が在阿法師のお墓を探し当てた時の記録 
在阿法師讃仰  佐貫勝隆寺 中川大仙上人による、昭和32年浄土宗報記載の文書