古松墳墓記


 上総国周東郡(周東ハ古記にしたがふ今の周准郡なり)市宿村三経寺に属する林丘の中に独秀たる数挟の松あり 是建長の頃此所に棲れける在阿法師といへる学匠の墓なり 師始は四明の教観をもって三締の宝玉をみがかれしかともおもき病をうけて露命のきえやすきをさとり宿縁や催しけん 香修の学処を改て往生極楽を願はれしに圓光大師の滅後異議蘭菊の津口に人を竢をりふし聖光上人の授手印鈔を見たり 修行の正軌なるを懌べども更に口授を闕が故に輒く理義に通せず 仍て臨末の仏勅に準じ所々に有識の門戸を款て其義を尋るに齟齬云々として亦たしからず 唯然阿上人は(後鎌倉光明寺の開山となり給ひし記主禅師の御事なり)光上人の真統なりと世にかくれなく云あへり 其頃禅師は下総の鏑木海上などに浄法弘通し在けるか夫禅室に趣き授手印鈔を捧げて明訣を請れしに重々の疑氷立地にとけ脉々たる法流聊滞りなく聞へければ在阿も専修仏名の門に入て決定の信をおこされむ その往復は決答疑問鈔と題して二巻今世に行はる 誠に法師の疑問は末代の蓁塞をひらき決答の昭なる事は三辰の天につけるがごとく是相呼相応して数百歳の唱首だれかこれを仰ざらん哉 今総の両国に宗門の学生分衛往反すること多し 国人これを楼こと天倫の兄弟にひとしく外護勢らるゝは皆忠上人在阿の餘光といひつべし しかるに在阿の遺跡は(性心の授決鈔に在阿弥陀仏は鎌倉にて蛻脱すと云々)此松にのみ駐てありつらん碑も失たれ共記主禅師は 上総周東ニ  有ト  在阿弥陀仏ト云人   の誌し白旗上人は周東周西は一郡の分てるとの言葉あれば法師の塋此去て又何所といはむ 且周准の東に陳迹の相似たるもなし 頼ひ在阿松といへる名の下豈空からむや 唐の会昌年中高徳の墓誌を抜き窆塔をわば記しに僉事去て其廃墳を再修せり然則銅石に刻めるしるしなきをもってなんに徒に止ものならむや 特に不知法師疑問の細密発心の果断なるを見時は高ふして名を求ざりし人ならん さらば一株の松の風調も旱からずして最貴もの歟 これらの理のみならず郷人をのずから此弧松をつゝしみ樵夫も斧を倒にしてすへることは厥厳威在す由乎 噫おそるゝのみにして拝帰せざる事悲べし 半千歳に近し この時享保十五庚戌総本山鎌倉光明寺五十八代の義誉上人海岳の艱険をわたり此旧跡を訪給いぬ 其所以は去ぬる十四年の冬負秩の学徒をよび優婆塞のため決答鈔などの口伝の書あまた教授し給ふにつけて素願も猶さら増給ひし故ときこへぬ元来師は教黌の峻徳にして志業方直歓沮その操をうつすことあたはず 塵俗を脱して衆に所重事久しひさしふして徴あるのゆへ歟 多日の行程同輩の敬慕日課称名の教化万を以て計之 既に当国湊にいたり給ふに迎奉る衆人眺るに延袤船々海潮に裳を涵して船を行衽を以て洲沙にぬかづくものおやに遇うふがごとく鳩て其幾許といふ数をしらず 耆耋の老もかくのごとき群衆古にも聞すといへり 所日当寺に駕をおろし給て在阿師を松下にとふらひ一会説法し給てよりこのかた四辺の道俗はじめて古徳の遺跡をしりあるひは災げつをはらはんためあるひは死亡の冥福をすゝめんとて男女老少日々に念仏し拝帰して其益を得事繁し おもふにむかし在阿法師の中心称名を以て自行化他し給ひし闇影朽す義誉上人の同気なる鳴啄相合て一朝に衆人念仏を行ずる事風草のなびき雷焦ひらくがごとし 是機縁時至て熟するといふものならん 故に某  甲在阿の墓誌を樹て其勝徳を表す 義誉上人賛助て好との玉へり 於戲黄鐘の節を聞て鼓缶の微劣を知とはそれこれをいふ様 上人爰に訊給さるさきには邑人此塚に妖怪ありといゝたり松下にちかづくことなし 今懇祈に随て霊祐有といふなんぞや是他なし 只知と不知人の通塞なり 良に長土芸が百忍は高家の向に旌れ在阿の高達は義誉上人の洒掃に光詩といふべし 依之国字を以て顛末を草記す人あるひはみづから揚といひてらひて售とも訝からむなれともありしにまかせたれば律制にも違ふまじしがのみならずいつとなくすぎやすき年月を経て得は親たり見聞し人も半ば忘却し其間に截寉續鳧の妄説も出るなれば禿筆の可笑を馳ものなり ねがはくは見む人玉を舍て篋を沽し昔を今に引かえたりこと葉のつたなきをすてゝ事のまことをとり給へかし

享保十六辛亥年五月晦日
三経寺十一世載蓮社運誉隆岩欽誌