行事解説 除夜の鐘


除夜の鐘

 
 「すす払いの済んだ茶の間に家族一同が集まって、年越しそばを頂き、テレビを見ながら一服していると、何処からともなく響いてくる鐘の音。お仏壇にはお灯明がゆらぎ、一つ二つと数えていた子供も、いつか母親の膝に眠ってしまいます。」
 これは、今から50年ほど前までは、お寺の暮れの文章の定例句の一つだったのですが、なにか懐かしい映画の一場面を見るような、いかにも日本的な、のんびりとした年の暮れの風景が思い浮かぶ文章ですね。
 年の暮れの過ごし方も、ずいぶんと様変わりしてきました。
 でも、除夜の鐘の音を聞くと、「ああ、今年も終わったな。」と、悲喜こもごも何らかの感傷にひたるのは、今も昔も変わりませんね。
 昔は「除夜の鐘」は僧侶だけが衝いていました。
 今では、鐘楼堂のあるお寺の多くが、僧侶に変わって一般の人達に衝いてもらうようになりました。
 当寺でも、一回目は僧侶が衝き、あとは一般の方々に衝いてもらうようにしています。(住職一人で108回衝くのも大変ですし、寒い中寂しいですから。)

衝く時間は

 皆様ご承知の通り、除夜の鐘は108回衝くこととなっていますが、この衝く時間はどうなっているのでしょうか。
 最初の一回目を衝いた時から新年を迎えたとする説(したがって夜12時から衝きはじめる)と、最後の108回目を衝き終えた時点で新年を迎えたとする説(したがって夜12時に衝き終えます)の二説ありますが、そのどちらかが間違っているというわけではありません。
 昔、まだ正確な時計というものがなかった時代には、お寺の鐘の音が時計の代わりをしていました。だから時間に関してとても曖昧だったわけです。(時間に追い立てられる現代とくらべると、いい時代でしたね。)
 ですから、この除夜の鐘の時間は、暮れから大晦日を経て新年に向かう間の時間ととらえていました。
 除夜の鐘を衝きはじめた時間からは、暮れでも新年でもない空白の時間帯なのです。
 つまり、大晦日(月の無い真っ暗闇の日で、まともな物の活動しない時間)であって、夜が明けてはじめて新年になったのです。
 現在のように、正確な時計で分刻みに時間がわかり、しかも、太陽暦で活動している時代では、このような考えは成り立ちませんし、夜12時丁度に108回目を衝くなんていうことは、ほとんど不可能なことになりました。(なにしろ人が衝くんですから。)
 そこで現在では、夜の12時頃から衝きはじめ、一回目を衝き終わった時点で新年を迎えたとするところがほとんどです。
 つまり、除夜の鐘と初詣が一緒になっているようで、よく考えてみると変な話ですけどね。
 関西方面では、除夜はお寺、初詣は神社と区別されているところが多いので、あまり違和感はありませんが。

なぜ108回撞くの

 私たちの身や心を煩わせ、悩ませ、かき乱し、惑わす心の動きを煩悩(ぼんのう)といいます。
 その煩悩が、人間には108種あるというのです。
 それを打ち破り、浄い心を思い出させるために108回の鐘を撞くのです。
 その煩悩の代表に

 貪(欲張る心)
 瞋(怒りの心)
 痴(おろかな心)
 慢(おごりたかぶりの心)
 疑(うたがいの心)
 見(悪い考えを持つ心)


の六つがあります。
その六つぼ煩悩は、人間の心と体、つまり「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つより一つずつ出てくるので、計36煩悩となります。
そしてその煩悩は過去・現在・未来と三つあるので、6×6×3で計108とする説が有力です。
 しかし、人間の煩悩・欲望には限りがありません。108の煩悩だけではすまないのが私たちです。
 昨年お誓いを込めて聞いた除夜の鐘も、さて今年の除夜となって振り返ってみれば、あの日もこの日も反省され、後悔される1年であったでしょう。
 掃いても掃いてもたまる塵と同じように、ぬぐってもぬぐっても積もるのが、心の塵(煩悩)です。
 だから毎年毎年、除夜の鐘を撞くのですね。
 除夜の鐘。もっと素敵な自分になって見せるんだと、願いを込めて撞いてみましょう。